特集:京都売ります! はじめに
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「京都のまちが危ない」
というコトバが、まるでこの国の歴史とか文化の壊滅的打撃のように、繰り返し語られ報じられる。それも、何か今までなかったものがまちに登場する度に、あるいはまちの光景がどこか変わろうとする度に、「危機」が叫ばれる。その意味では、このまちは「危なく」なかった試しがない。
善悪はさておき(その判断を下す前に、我々にはやっておかなくてはならないことがある)変化することは都市にとっては常態(あたりまえ)だ。そして、このまちも確かに変化してきたし今も変化しつつある。変化には良くなる方も悪くなる方もあり得るはずだが、「京都のまちが見違えた」と聞くことはあまりに少ない。
そして、もうひとつの条理(あたりまえ)がある。まちが変わるときは、大抵はまちの何かが売り買いされている時だ。それ以外の変化といえば、緩慢な「経年劣化」くらいだろう。
となりにマンションが建って日影になった。その「となり」を誰かが売って、誰かが買ったからだ。この観点を欠いた「マンション問題談義」は空虚だし、的を外している。 財産保持の観点から、マンションにできる土地・家屋を所有する者=売ることのできる者はマンション建設に否定的な態度をとりにくい。 反対の中心となる「まちの人」は、ほとんどがマンションにはできない程度の、だから反対することが純粋に自分たちの暮らしや財産価値の保全となる小規模の土地・家屋の所有者だ。ついでにいえば、借家人はその発言権すら普通ない。かくして「まちの声」も、売ることをめぐって多重に構成されている。
善悪はさておき(その判断を下す前に、我々にはやっておかなくてはならないことがある)、まちは「みんなのもの」だが、まちを構成するそれぞれは「誰かのもの(所有物)」なのだ。
このことを忘れると、議論も改善のためのアプローチもとっても無責任なものになる。「まちの美しさ」の恩恵を受けながら、その維持にはびた一文も払わない人をフリーライダー(ただ乗り野郎)と呼ぶのなら、「売り買い」の視点なしに、「まちが醜くなった」「京都の景観のために売るべきではなかった」「資産価値が下がろうと容積率は下げるべきだ」と、まちを論じること(「美しさ」や「危機」を語ること)だって、同様のはずである。
デザインや政治や市民の意識なんかについては繰り返し繰り返し語られるのに、あたりまえすぎて口にされないこと、皮相過ぎて目に見えにくいことがある。つまり町は変わること+変わるときは「売り買い」があること。まちについての評価や価値判断はどのようにも可能だが、実際にまちを変える「価値付け」は、いつも「身銭を切ったもの」であること。我々が目にしている「まち」や「まちの変化」や「まちの変化のなれの果て」は、みな誰かが「身銭を切ったもの」である。
だからこそ今回、京都げのむでは、このまちを「売り」から眺め直して見たい。我々がひろげたフロシキは、時間の軸に沿って広がっている。[過去]かつて売られたもの=問題物件、[現在]いままさに売られつつあるもの、[未来・仮想]売られるかもしれない/もし売られたらどうなるかというしろもの。「売れないもの」や「売ってはならないもの」もなかには混じっているかもしれない。
お上品で無責任な「京風」のやり方でないところが、われわれには(そして現実のまちには)ふさわしい。京都らしく京都を語ることは、季節のたびに繰り返される雑誌の「京都特集」あたりにお任せしよう(それだって、老舗といわれる方々が少なくない金を出して「買っている」とのうわさなのだが)。
「売る」以上、われわれには「値つけ」の義務が課せられる。「よい」とか「わるい」とか「好きだ」とか「嫌いだ」とか「規則だ」とか「愛だ」とか「重要だ」とか「伝統だ」とか、身にしみない・誰も傷つかない「評価」が、ここでは何の役にも立たないことが明らかになるだろう。「売り買い」する以上は、シビアに「で、それいったいナンボだんねん(how much)?」という、不躾な問い返しに応じなければならないからだ。
今回のエントリーされたモノたちやその「値つけ」の当否等については、当然「議論」があるはずだ。
「もっと価値があるはずだ」「こんなに高いはずがない」。それこそ、望むところだ。お互いに譲り合い放っておくしかない「好き」「嫌い」や、
したり顔でうなずくしかない「重要さ」や「伝統」などとは違った、ナマでぶつかり合う比較や議論がようやくできるということだからだ。
したがって、あなたもこのたびの「売り」に応じてほしい。
その身と財布と愛とに問い直して、あなたなら何にどれだけ払って「買う」のかを決めてほしい。
身銭を削って、あなたはこの「京都」を、どこを、なにかを買いますか?
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